瀬戸内国際芸術祭2022-夏②大島(前編)

大島(前編)

2022.8.17
9:20高松港発→9:50大島港
無料の船、せいしょう(←船の名前)、有難い。

 

瀬戸内国際芸術祭に来るのは4回目なのに大島には初上陸。ハンセン病に関わっている島、という知識は瀬戸内国際芸術祭が初開催された2010年からガイドブックなどで見聞きしている。ずっと気になってはいたものの今までこれずにいた。

降り立ってみて、なんだか不思議な雰囲気がする島、という印象を受けた。降りてすぐに松が生えていて記念の庭やら記念碑やらを目にする。我々が歩き周って良いとされている側は現在島で生活されている患者の方達の居住区ではないようで、生活の気配が感じられず、道々の植物には名前のプレートがひらがなで表示してあったり、建物や歴史的な物の説明が書かれてあったりと、他の瀬戸内海の島とは違いハンセン病の歴史を前面に打ち出し、見せるために加工している島、という気がした。


os11. リングワンデルング:鴻池朋子(2019〜)

またしても島の最奥部の作品から港に戻るようなルートで周ろうと思って島の北の奥まで来たが、あまりにも人がいない中どこまでも藪の中を進むことに恐れをなして、この作品の周遊する道の案内が描かれた看板:鴻池朋子氏作までで奥には進まずに引き返してきた。

この作品の一部は確か今日は足場が悪いから立ち入り禁止だと、船から降りた入り口付近で島での過ごし方を案内してくれたこえび隊(芸術祭ボランティア)の人が言っていた。だからきっと進んでも見れないはずである、と自分に言い訳をする。

ちなみにリングワンデルングとは、悪天候で方向を見失い、無意識に円を描くように歩く登山用語、だということ。


新潟の大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭のような過疎の田舎が舞台の芸術祭で、都会に住んでいると滅多に経験したことのない孤独、地球に一人だけになってしまったような自然と自分だけ、誰も助けに来ないような場所にいることを感じると時々怖くなることがある。ドキドキしながら進んでいく時もあるけど、今回は好奇心よりも億劫さ、恐怖が勝ってしまった。この島は、かろうじて人が通るために道のようにはなってはいるけど屈んで通るような草のトンネルであったり、木や草が覆い茂りかなり自然に近い状態の中を進んで行かされる。蚊にもあっという間に両腕10カ所刺された。子供の時はこういう所は平気、というか寧ろ楽しかったのに、今は虫やら野生のものに抵抗があり不快に感じるようになってしまった。

 

がしかし好奇心が勝つと、大島に居ながら四国の八十八ヶ所巡礼ができるよう大正時代に寄贈されたというミニ八十八ヶ所霊場の石仏を横の道に見つけ(石仏がずらりと88体?こちらには背を向け海側を見て並んでいるのが見えた)、つい、なんだろう?と思ってわざわざそちらの葉や枝が伸び切った通りにくい道に行ってしまったりもする。

島の北側から元居住区を眺める

 

来た道を戻る途中に芸術祭の作品ではないが、風の舞、という砂利敷きの広場に石を円錐状だったりに3か所に積み上げた作品があった。広場の手前には火葬場と観音様。
島から出ることが許されずに亡くなった方達の魂が、せめて死後は自由に解き放たれ(風に舞い)ますようにという風の舞という作品と、"生涯孤島但し安心立命"という観音様の土台に掘られた文字に心を打たれ、写真を撮った。

"信心によって心を落ち着け、身を天命に任せ、生死利害に悩まずに生き抜いた"

というのが観音様の建立のいわれだということで、隔離され差別されて苦しみながらも心穏やかに生きようとしていた人達の願いが込められている。ハンセン病に比べれば大したこともないかもしれないが、人は人それぞれ苦しみの中に生きているので、人生を受け入れて心穏やかに生きようとすることは誰でも目指すところである気がして、人生の先輩たちに励まされた。

火葬場の手前の観音様

 

元々ハンセン病の島だと知ってはいたものの、この辺りからこの島の暗い歴史を感じ始めて心が重くなっていく。

どんなに空が晴天でこれでもかというくらい明るくても、心がどうしようもなく沈んでいれば、辺りが暗く澱んで見えるようなこともある。(←自身の経験による)

瀬戸内海の海は私にとっては心が解放される風景だけど、この島から出られず海越しに四国を眺めていたハンセン病の人達にとっての海とは自由を阻む恨めしいものだったのかもしれない…。

 


os06. 歩みきたりて:山川冬樹(2016〜)

住宅のふた部屋を使った展示。片方の手前の部屋には、押入れや床の間、床などにハンセン病を患った歌人政石蒙の遺品などを展示、奥の部屋は薄暗い中で大きいモニターが横に3つ並べられ、山川氏が政石蒙と関係の深い地-モンゴル、愛媛県北宇和郡松野町、そして大島の3箇所を訪れ、それぞれの地で政石氏の随筆が朗読されている映像がで同時に流れている。

os06.歩みきたりて:山川冬樹 手前の部屋の床の間

 

os07. 海峡の歌/Strait Songs:山川冬樹(2019〜)

高松から大島まで泳いで渡った自分を2ヶ所の視点から撮影。建物の表側からと、裏側に廻ると違う映像を見ることが出来る、裏側は大島で過ごしたハンセン病の人たちの歌を現代の小学生たちが音読している声が流れている。高松と大島の白い模型があってそこに泳いだ経路が記されていた。先程私が30分かけて船で渡ってきた距離を、人力で泳いで渡るなんてよくこんなことをしたものだ、と感心する。この島から脱走を試みた人達がいたらしいが昔の人は今の私たちよりもっと必死に生きていた、海を渡るなんて不可能では?と思われることをやってのけた。そういう背景をふまえて、それを体験して見せている、という作品に惹きつけられる。

山川さんは「隔離」という問題について考え、大島に生きた人を肯定しよう、とこの二つの作品(os06,os07)を作っていて、着眼点と表現が興味深く、もう一度ゆっくり見に行きたい。

 


以下、軽症者独身寮として使われていた建物での展示

os05. {つながりの家}GALLERY15「海のこだま」:やさしい美術プロジェクト(2013〜)

船が家屋の中に設置、展示されている。床が抜けて床下が露出、押し入れの板が外され木の柱だけになっているので隣室との境が取り払われていて、奥行きを感じさせる。島に残っていた唯一の木製の船らしい。

 

 

* * *
作品os05とos04の間に小さなドームがあって、その中に海から拾い上げられた石の解剖台が展示されていた。こちらも島の慰霊碑で、ハンセン病の方達が死後に解剖されていた解剖台は解剖室が解体された時に海に埋められたが、2010年に瀬戸内国際芸術祭が初めて開催される間際に海岸に打ち上げられているのを発見されたとのこと。天板にフジツボが棲息していたようだ。島に病気で来ることになった人たちは入島の際に亡くなったら解剖を許可することに署名をさせられたのだという。のちに大島青松園社会交流会館で観賞する作品にもこの解剖台のことがふれられている。ハンセン病の患者の方達にとってはこの解剖台を見ると思うところがありすぎるのだろう。

 

os04. 稀有の触手:やさしい美術プロジェクト(2019〜)

ブルー、一色で塗られた室内に白黒のポートレートと太陽、風景の写真が並ぶ。室内は窓からの自然光のみで照明が無いので、明るいところは明るいが暗いところは海の底のように青黒い。被写体の人物のハンセン病の症状で指が折れ曲がっている写真を見て、また苦労された人生を勝手に想像して、室内の暗い演出にも誘発されてやはり重たい気持ちになる。

被写体の人物は島の「カメラ倶楽部」の最後の一人である脇林清さん。情熱的な太陽の写真は「カメラ倶楽部」の中心人物だった鳥栖喬さんが撮ったものなのか?今まで写真から何かを感じるのが得意ではなかったが、今回は写真からは感情が感じとれるような気がした。脇林さんのポートレートを撮った高橋信之氏の作品の制作ノートによると、鳥栖さんと脇林さんの写真に対しての情熱が伺われ、背景にハンセン病でこの島に捕らわれているという理不尽があっても、夢中になれるものが人生を救うのだとつくづく感じる。

独身軽症者住居は5人分が一つの長屋になっていて、この建物(12寮という名称)の4人分の住居を使い、入り口とその両サイド3人分の住居(12寮-2~4)は6面ブルー塗で出入りが出来、入って左側の住居(12寮-2)の、その隣(12寮-1)はその中に入ることはできないが、暗い青の部屋から真っ白い部屋を覗くことができる、床に散らばるものが何なのか想像も付かなかったが、高橋さんの制作ノートから判断すると鳥栖喬さんが撮影の時に使っていた自助具の欠片なのかもしれない。

12寮2室から1室を覗く

大島(後編)に続く

 

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