横浜トリエンナーレ2024 感想①横浜美術館

横浜トリエンナーレ2024 野草: いま、ここで生きてる

2024.05.02

横浜美術館

※今回、印象に残った作品を抜粋

※ギャラリーごとのサブテーマがあり、作品がカテゴライズされている

 

苦悶の象徴[ギャラリー7]

志賀理江子

宮城県牡鹿半島で狩猟をしている小野寺さんとの会話とその生活の写真を通して、震災後を含めて、人間の在り方を問う作品。見ないように忘れて生活してるもの、を突きつけられる。

動物と生活圏を分けるように生活し始めた人間、動物側からしたら分からない境界線を勝手に人間様中心で引かれて、人間の生活圏に入ってきた自分達に都合の悪い動物は、生きる権利を無視して簡単に駆除して、と言う人間。

道具がなければ動物より弱い人間が時に死の恐怖を味わったり、生の動物と対等に向かい合わないことを小野寺さんは疑問に感じてる、という。

志賀理江子 (吹抜け反対側の通路より)

 

(他の作品も、ウクライナの戦争だとか、それぞれ問題提起しているので色んなことに気づかされて、自分が如何にくだらない日常、仕事に追われて何も考えずに生きてるか、何も問題に感じず日々どんどん流されて生きて死んでいくだけ。こうしてアートを見ることは気付きをもたらしてくれる)

 

 

密林の火[ギャラリー4]

小林昭夫とBゼミ

芸術教育に疑問を感じた小林昭夫という人と彼が作ったゼミの展示。細かい内容を覚えていないくせに、高校時代から専門の美術教育を受けてきた身としては、日本の芸術史の中にこういう人がいたんだ、こういう歴史の上での現代なのか、というのが印象に残った。

 

 

 

わたしの解放[ギャラリー5]

富山妙子

ボリュームがある、一つのギャラリーを占拠

東日本大震災等の昨今の世の中を震撼させた出来事を龍や神話の神を登場させた風景で描いていたり、リトグラフの作品では独特な、悲しみのような人々の顔が迫ってきて、一人のアーティストの模索した世界観をなぞって見ることができる

 

 

流れと岩[ギャラリー6]

リタ・ジークフリート

何も起こらなそうな静止画と何か起きそうな絵の違いって何なんだろう。現実を写実したものか空想の空間かの違い?

超絶技巧の絵に私がひかれないのは、技巧がとてつもなくすごい、でその絵がそれで終わってしまうから?画家の含み、現したい感情を私が読み取れないから。

洞窟のような場所から明るい入り口をのぞいてる絵(暗い洞窟内の岩が人の顔が見える?気のせい?)、

うっすらと不穏な空気を感じて絵の中の空間でその事前事後で何かが起きそうな予感がする絵、空想をしてしまう絵

 

 

鏡との対話[ギャラリー1]

アネタ・グジェコフスカ

順路を間違えたのか?意図的か?作品を見た後に作品説明に辿り着いたせいで、度々作品に登場している無表情な女性の皮膚の色合いが生身の人間にしては微妙な感じがして絵なのか?写真なのか?訝しみながら鑑賞した。結果的には作品説明を見て作り物のシリコンでできた女性を生きている子供と写真に撮ったもの(母親と娘)だと分かったのだが、お面を付けた犬の写真も、娘とツーショットで、時にペンキみたいなのを被せられたり、カートに乗せられていたり(女性は上半身のみ)自由を奪われて為されるがままの女性を、連れて従えている子供も、お面をつけることで足を奪うことで自由を奪う、心の闇、虐げられたからこその怒り、支配欲、みたいな黒い感情を想像してしまった。

 



 

映像作品も多くて

囲われている小屋に入ったり

隔てがあって先が見えなくて

順路に沿って部屋を移動して進み

次は何が来るだろう?って待ち構える

歩いていて、ふと

お化け屋敷みたい、と思った

 

記憶には残っているかいないかで言えば、

今の時点ではほぼ全作品覚えてるのだけど

その中で印象に残る作品と

記憶には残っているものの印象に残らない作品と

違いは何なのか

 

占拠してるスペース、作品の量だけでもなく、

文章があると強く印象づけられる場合もあるし、

絵だけでも心に残るときもある

その作品の前にいた観賞時間もあるし

何某か私の琴線に触れた場合

会場を後にしてしばらくしても

印象に残っている

 

志賀理江子さんの作品の場合、吹き抜けを囲む通路の片側の壁面に展示されてるものを最初は近距離で(背景の大きな写真は視界におさまらない)小さい写真と文章を鑑賞した後に、(文章の内容が特に印象に残る)他の作品を見たあとの順路で達した吹き抜けの、作品と反対側の通路から、今度は遠目から全体を見た時の背景の写真の大きさ、赤いトーンのインパクトが脳に焼き付けられる。

富山妙子さんは作品自体が印象的であることもさることながら、作品数が多い。ほかのアーティストはギャラリー(一部屋)の中の一角に作品が置かれてるのに対し、富山さんはギャラリー一部屋を作品が占拠していた。

リタ・ジークフリートさんの作品の場合、絵の描かれていないものを想像してしまう奥行きに脳が惹きつけられてしまった。だから印象に残った

キューレーターが今回のテーマに沿って選んでいる亡くなっているアーティストの選定も興味深い。例えば小林昭夫さんとか。

 

 

今回のトリエンナーレのテーマの、

野草:いま、ここで生きてる

それに付属するギャラリーそれぞれのサブテーマも面白い。

 

ギャラリー5のサブテーマの

わたしの解放

内に貯めておかないでアウトプットする、自分の内面と向き合って作品を作る、こと自体がアーティストにとって解放だと思うけど、さらに作品に解放というテーマをのせているのか、とか。

 

ギャラリー6の

流れと岩

流動と静止、液体と個体を象徴してる展示作品をカテゴライズしたテーマだけど、人にも当てはまる(流れ、のように止まらずに生きる人と岩のように静止して生きる人)ので、ふと立ち止まる。本来どちらが正しいということはないはずだけど、周りがどんどん進んで行く世の中だから、現状を維持してるだけでは退化、だと言われたり、実際、現状維持では企業に勤めるなら通用しない。一人では自立できない人間は生きるために集団になり、(一人で生きられないように教育されてるだけ?一人で生きられるように教育しないのか?)周りに適応順応して、独自の考えを放棄する。自分のこだわり、考えなんて持ってるだけで足枷になる。時代に流されて、岩のように止まっていることなんて許されない(という環境もある)。

 

自分のもやもやが掘り起こされる。

 

余談

文章の説明が多いとアーティストの伝えたいことは分かりやすいけど

気持ちがそこに簡単に誘導されて着地してしまうので

私が求めているアートとは違うような

ちょっとだけつまらない気もする

人に伝えたい、がメインなのか

伝えるよりも自分の感情を表現することがメインなのかで

表現、作風が違ってくるのだろうけど

私が求めているのは人の複雑さとか、自分の知らない視点とか面白い表現とか。

 

 

物理的に後ろが仕えて押し出されて前に進まなくてはならなくてサクッと見てしまったもの、

或いは、会場を歩き回ってる途中でお腹が空いてきてしまって(入る前に食べておくべきだった、失敗した)空腹で集中出来なかった作品など、

観賞時の条件が悪かったものは残念ながら印象に残っていないので、

もう一度行くことができたら、今度は違う作品が印象に残るかもしれない

 

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